「ワールド チョコレート マスターズ」(以下「WCM」と表記)に出場された歴代シェフの皆様をご紹介。
京都府東山の「ショコラトリー ヒサシ」オーナーシェフである小野林範シェフは2015年 WCM第6回大会に出場され、準優勝を飾りました。
大学の英文科卒業からパティシエとなられた、小野林シェフのキャリアの始まりから、WCM出場当時の裏話など、盛り沢山な内容をシェフのラボでお伺いしてきました。
まずはインタビュー前編をお楽しみください!
きっかけは「オカンが勝手に応募!」商社マンの道からパティシエへ
― パティシエになろうと思ったきっかけは?
話すとだいぶ長くなります (笑)。普通の大学の英文科に在籍していて、僕は大阪の商社に行く予定だったんですよ。
お菓子には全く興味がなかったです。うちの家が皆甘いものを食べない家で、お菓子が家に無かった。両親とも働いてたんで誕生日を祝うこともあまり無かったですけど、誕生日ケーキも無くてお寿司に連れてってもらうくらい。
洋菓子というものに触れたのが、大学二回生の、ウィーン菓子のレストランのホールのアルバイト。名古屋の大学だったんですけど、大学四回生になって授業が無くなって、親が下宿代もったいないから滋賀に帰って来いって。生活費くらい入れてってなったので、アルバイトを探そうと。
当時求人媒体が名古屋の方だと雑誌だったんですけど、滋賀に帰って来ると本当に何もなくて。見るに見かねて母親が勝手に「たねや」さんの募集に応募して。ジャニーズ式です(笑)。「もともとはオカンが勝手に~」ってやつです(笑)。彦根城の前の、美濠の舎(みほりのや)のアルバイトスタッフに応募されてたんです。
初出勤日が12月24日のクリスマスイブ。今でこそコンビニとかで大手企業さんがクリスマスケーキを売るっていう状態なので、作っても二千個とかそのぐらい。ただ当時はね、今ほど各お店に置いてるものでは無いし、一万個くらい作るんです。僕は洋菓子屋がなんたるかを知らないから、入ったその日に「なんでこの人たちこんなにバタバタしてるの?」ってなる(笑)。正直なところ、当時は洋菓子に全く興味がなかった。
― そんなシェフが、なぜクラブハリエに就職されたのでしょうか?
ある日、僕の目の前でシェフがパイピング一発で「お誕生日おめでとう」とかシャシャって書いて。「何?お前パイピングも書けないの?」って言われると、「何言っとるねん、書けるわ」(笑)って思って、やってみたら全然できないんです。
それで家に帰ってマヨネーズで練習して、次の日には絶対書けるようにして行く。そんな事を何回かやってるうちに、誕生日プレートも書かせてもらえるようになりました。アルバイトなのに、本当に仕事をどんどん与えてもらっていました。
洋菓子の価値観が変わったのはある日、たまたまお店のサブールっていうケーキが余った事があり、食べていいよって言われたんですけど、「どうせ甘いんやろ」と。このサブールを食べた時に、洋菓子に対する自分の先入観が全部飛んで。そこですね。価値観がガラッって変わりました。
就職を蹴ったのは、シェフに「お前向いてるから残れば?別にどっちでもいいけど」って言われたからなんです。そういう方なんですよ(笑)。それで、「じゃあ残ろうかな」と思って。
面接の時に、ショコラティエの枠空いてるから入らない?って言われたんです。今でこそショコラティエっていう言葉は普通なんですけど、パティシエっていう言葉が世間に認識される前、今から20年前「ショコラティエ」って認識されてないですよね。よくよく考えると、そのシェフはそういう色んなことに精通してました。その人の下に最初に入ってよかったなってすごく思います。
独立まではクラブハリエ一本!大企業に身を置くからこそ得られるスキルとは?
― 2018年にショコラトリー ヒサシをオープンされるまでの15年間、クラブハリエで修行を積まれました。フランス修行や複数のお店で経験を積むのではなく、一つの場所で長く修行を積むことを選択された思いや理由があれば教えてください。
クラブハリエの山本社長ですね。親方との関わりが生まれてからかな。何回も辞めるって言ってるんです。イヤで辞めるとか、上司と喧嘩したとか。自分のスキルアップのために東京の菓子屋に行きたいとか。
山本社長と出会わなければ、一つの会社でやりきるという考えはなかったと思いますね。お菓子屋さんをまわって得られることも多分あったと思うんですけど、クラブハリエのフィールドっていうのは色んなことを学べるので。
ちょうどブーランジェリーやアイスクリーム工房ができる、クラブハリエがいろいろと挑戦していくタイミングだったんですね。そういうタイミングにたまたまその部署に関われる機会が多かったのはとても良い経験を出来たと思います。
独立前、技術的なことを吸収するとか文化や背景を知るために、渡仏するのは大きいと思いますし、アイデンティティが入ると思うんですけど、経営者としての力は本当にハリエにいてよかったなって思いますね。昨今色んなことがあって大変な中でも業績を落とさずに経営できているのもそのおかげだと思います。経営者感覚、お客様との距離感やいわゆる良いバランスとか塩梅みたいなものが、クラブハリエはとても長けていると思いますね。
時代が変化しているから思考を変えていかないといけないし、プレゼンテーションもそこに寄り添わないといけない。お菓子屋さんというアイデンティティは絶対崩さないけど、柔らかくフレキシブルに変わっていける、そういった考え方はクラブハリエにいてよかったなと思いますね。大会への参加に関しても全然ネガティブじゃなくて。
目が覚めたきっかけは水野シェフの一言。環境を言い訳にしないということ
― WCMに2回チャレンジされ、3回目のチャレンジでWCM代表に選ばれましたが、そのきっかけとは?
水野さんですね。ジャパンケーキショーに初めて出した26歳の時、たまたま銅賞取れたんですよ。完全に調子乗るじゃないですか(笑)。「いけてるや~ん!」みたいな(笑)。翌年も、と思ったら、翌年は持っていく時に大破して出品すら出来なくて。その翌年もまた翌年も、3年間とれなかったんですね。
もうこれは向いてないな、と思ったんですけど、ちょうど水野さんがWCMに出て日本人で初めてフランスで優勝して。問屋さんから見に行きませんかって誘われたので、世界一を見たくて東京の講習会に行ったんです。
その時初めて水野さんの作品を見させてもらいました。水野さんは当時二葉製菓学校におられたんで、面識はないんですけどその翌日学校に電話しました。一切コネクション無しで、問屋さんも通さず(笑)。「小野林といいますが、作品見させていただいて、次関西で講習会されると聞いたんで、助手やらしてほしいです」って言ったんです。多分水野さん覚えてないと思うんですけど、僕助手やったんですよ。
ただ、「お前のその動きやったらもう二度と呼ばんわ」って笑いながら言われました(笑)。今は家族ぐるみの仲ですけど、当時職人としてのジャッジをバツンってされたんで、逆に気持ち良いぐらい。
当時環境のせいにしてた時期なんですよ。できひん人、やらない人って絶対周りや環境のせいにするんです。まず自分がやらないステージを作るんです。逃げ場所を作ってから大会に出る。出しはするけど中途半端なもんだして、評価してもらえへん~みたいなことばっかりしてました。
そこでずっとズバっと水野さんに「お前あかんよ、もう二度と呼ばんよ」と。やっぱり世界大会に行く人っていうのはメリハリがしっかりしてる。アカンことはアカンってしっかり言ってくれるので、自分にはそれが向いていて。
と言いつつも、次の伊勢丹さんのサロンドショコラの時に呼んでくれるんです。アメとムチですね(笑)。
その時は、自分も大会に出ようとは思ってなかったですけど、水野さんの助手を何度かやらせてもらってる間に、今度は水野さんが和泉さんに紹介してくれて。だから和泉さん、水野さん、僕っていう関係性っていうのがあって、そういう流れで世界大会、WCMに出ようとなりましたね。