「ワールド チョコレート マスターズ」(以下「WCM」と表記)に出場された歴代シェフの皆様をご紹介。
代々木上原にある「アステリスク」オーナーシェフである和泉光一シェフは2005年、記念すべきWCM第一回大会に出場、見事世界第3位に輝きました。それ以降、国内予選の審査員としてWCMの変遷を見守ってきた、WCMにとって欠かせない存在です。
和泉シェフの、パティシエとしてのお菓子作りへの想いやご両親とのエピソード、WCM出場当時の裏話や今大会のポイントなど、盛り沢山な内容をお伺いしてきました。
まずはインタビュー前編をお楽しみください!
和菓子屋の息子がパティシエになるまで
― 和泉シェフがパティシエになろうと思ったきっかけはなんでしたか?
父が愛媛の田舎にある和菓子屋の3代目なんです。
「小さい時から家業をずっと見てきて、お菓子屋になろうと思いました」…って言えたら綺麗な話だけど(笑) 真逆で、幼かった僕は同じ仕事はしたくねえと思ったんです。
朝の3時4時から仕事をして、休みも無ければ、親に相手にしてもらえないからね。
田舎の和菓子屋さんって都合よくクリスマスだけケーキ屋さんに変身するんですよ。
ケーキ屋さんはあるんだけど数が少ないから、父は一週間だけ洋菓子屋さんで修行して、クリスマスだけは洋菓子屋をやっていた。
小さい時からあんこばっかり食べさせられて育つ僕には、生クリームの美味しさが感動的で、香りが全然違う。
「この仕事なら親父と違うぞ」って思って、少しずつ洋菓子をやってみようと。
大人になっていくうちに、仕事の大変さもわかるようになって、かっこいいなと思うようになった。
内緒で日本菓子専門学校に行くって決めた時に、俺は両親が絶対喜んでくれるって思ったのに大反対。「ちゃらんぽらんなお前には務まらねえ」って親父から言われた。
親元を離れて東京に出て、学校に通いだした頃は「パティシエなんだろうか、和菓子屋なんだろうか」ってぼやんとしてる。
ナメた学生だけど、昔から手伝ってる分あんこの包餡とかできちゃうから、和菓子の授業は面白くなくて…。唯一授業でちょっと面白いのは洋菓子の方だった。
その後運よく「成城アルプス」に合格させてもらって、現場に入った頃から「ちょっとこの仕事面白いな」と思い始めた。
「実家に帰るな、跡継ぎするな」と言われたから、なんとか自分でやっていかなければならないと思っていたのが良かったんだと思う。
父は一度もお店を見ないまま他界 - 親子でもあり、職人同士でもあるプライドと絆
― 和泉シェフは、ご実家に帰る気がなかった?
17、18歳の頃、親父に「親子の縁を切るぞ」って言われたのよ。
「同じ仕事を選ぶんだったら甘えた考えでやるな」…その年代だと、この野郎、帰ってやるもんかって意地になるでしょ。
親父は冗談で言ったみたいなんだけど、僕が真に受けちゃって帰らないことにした。
実家の跡継ぎにも、ロマンがないと思っていて。帰ったら楽なんだろうけど、敷かれたレールを走るのはあんまり好きじゃない。
それで、実家に帰ることについては一切断ち切った。今も断ち切ったままなんですよ。
― シェフのお店「アステリスク」はオープンして10周年ですが、ご両親に来ていただいたことは?
皆さんびっくりすると思うんだけど、一度も来たことは無い。
父は一度もうちの店を見ないまま他界。うちの母も見たことが無い。
お互いの割り切り方、すごいでしょ?「お前がやったことに対して、俺は一切何も言わないし、見もしない」って言われて、結局来ないままそのまま死んじゃった。
― ご両親に見て頂きたいとは?
思った。「亡くなる前に見せたかったよ」って言ったら、「見なくてよかったよ」って言われた(笑)
向こうも職人気質で、一度言いだしたら聞かない人だったからね。曲げることなく、そのまま亡くなっちゃった。
僕は見せたかったから、写真は送ったけどね。ただそれは大事にしていたみたい。だから写真を棺の中に入れてくれた。
親子でもありながら職人同士でもある、微妙なプライドをずっと持っていた。
だから僕は、余計に挫折できないっていう気持ちがあったのかもしれない。
(現在のお店の様子)
実力を自分の肌で感じたい - 世界に目を向けたシェフ
― 数々のコンクールに出場しようと思った理由は?
本格的に始めたのは、「サロン・ド・テ・スリジェ(調布市)」のシェフになってから。
当時の上の世代の人たちは、所謂パティシエブームの真っただ中で、僕らはその次の世代。何か色を変えていかないといけないから、表現する方法として一番目の前にあったのがコンクールだった。
我々は「若い間にコンクールに出てはいけない」と言われる世代だったから、ちょこっと練習でもしようもんなら、先輩から「そんなことやってんだったら、洗い物一個でもやれよ」って言われる。例えば仕事終わってからガトー誌を見ても、すごい怒られるんだよね。代わりに先輩のパチンコ台を取りに行かされたり(笑)
僕はその頃30歳に差し掛かっていて、手っ取り早く自分の技量を見極めたかった。
師匠に「お前は仕事ができるから、このままお店やれ」って言われても、誰とも比べられたことがないからすごく狭い世界で言われてる気がしてた。
今はそんなことないんだけど、もともと出不精で究極の人見知りなんだよ。
業界の仲間もあまりいなかったし、外に出てニコニコ、人とご飯食べて有名になるって選択肢もなく…。
だから、「もうここは実力で戦うしかねえな」って思った。全てはフランスから始まってるって思ってたんで、そこに行かないと、本当の僕の技術が凄いのかどうかもわからない。
人に褒められても、自分の肌で感じなきゃと思って、コンクールを選んだ。
当時スリジェにいた原さん(注:オーナーパティシエ 原光雄氏)に「コンクールやりたいんですけど」って言ったら、あの渋い声で「やったらいいんだよ」って言ってくれた。
本当にスリジェには自由にさせてもらったから、その恩返しで売り上げを上げるっていう決意でやってた。
それで、全部のコンクールに出てやろうと思ってたの。
30歳から5年間と自分で決めて、どうせやるなら史上最強、誰も経験したことのないことがしたかった。
10年間パティスリーで働いてた僕が、ちょっと別のことをやることになるじゃない?
でも将来お店がやりたかったから、だらだらしてもしょうがないと。日本には洋菓子協会さんが主催するジャパンケーキショーや有名なコンクールはたくさんあったんだけど、自分は日本であんまり認められないかもしれないと思っていたし、遠まわりになると思った。
俺は世界に行きたい。すげー生意気だよね(笑)
そこにあったのがマスターズや、他の世界大会につながる日本予選。ここだけに目を向けて勝負してみようと。
10年パティスリーで下積みやってちゃんと働いてるって自信はあったし、コンクールはその延長だと思っていたから。
ワールド チョコレート マスターズを今でも愛している理由
― WCM2005に出場し、世界3位という結果をご自身はどう思われましたか?
当時はフランス語も全然わからなかったし、無知だった。
日本の審査と同じだろうと思っていたら、実は搬入の向きを間違えていて。僕は背中を向いて審査されていて、その結果が4位だった。
もちろん抗議したんだけど、「まあまあ、日本人だからいいじゃん、ここまで来れただけ」って言われた。
悔しくて、一睡もしないで東京まで帰ってきた。絶対フランス語を勉強しなきゃいけないって思ったし、そこから誰にも内緒で仙人みたいに、来る日も来る日もショコラの勉強をした。
向こうの味覚を知るためには食生活を変えなきゃいけないと思って、約2年間日本食を一切食べなかった。当時スリジェにいたから、食事を全部フランス式にしたの。
世が少しショコラに向かい始めてるのを少し感じ始めた頃、WCM2005の日本代表に選ばれた。
ただ「過酷だな~、世界大会」と思ったね。
一回目だからルールも曖昧。会場も今みたいに集約されていなくて、3か所に分かれてた。
選手のホテルは50分かかる場所だったから、それぞれ50分かけて道具を持って移動していく。
アジア人は日本代表の二人だけで、後はヨーロッパ人との対決。絶対上位に食い込みたかった。
そこで僕がその大会で捨てたのは、日本人が一番得意とするピエスモンテ。「日本人はピエスばっかり」って言われるのが嫌いだったから。
徹底して準備したお陰で、アシェットデセール(注:卵からの誕生を表現したレシピ、「エクロジオン」)で1位が取れた。
僕の完全な菓子屋さんとしての分岐点がWCM。だから今でもこうやって愛してる。
その後色んな大会に出ているけど、WCMがないと自信も持てなかった。
フランス人もベルギー人もイタリア人も抑え込んで1位を取ってるんだから。
「俺、うまいもん作れるじゃん」って思ったね。
後編のインタビューはこちら!
伝説のレシピ「エクロジオン」やワールドチョコレートマスターズの変遷について語って頂きます!
シェフプロフィール :
和泉 光一
アステリスク オーナーシェフ社団法人東京都洋菓子協会・技術指導部委員。
東京・調布の「サロン・ド・テ・スリジェ」のシェフ・パティシエとして長年勤務し、数々の受賞歴がある。
「ワールド チョコレート マスターズ 2005」にて総合第3位に輝き、2007年カレボー大使に就任。
アジア各国での講習会やコンサルタント活動も精力的に行いながら、渋谷区上原の人気店『アステリスク』のオーナーシェフを務める。